もし僕らのことばがウィスキーであったら、もちろん
これほど苦労することもなかったはずだ。
僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを
受け取って静かに喉に送り込む、それだけで
すんだはずだ。
とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。
(村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』)
でも、差し出されたグラスに
きりきりにひやされたウオッカがほんの少し
そそがれていたらどうだろう。
レイモンド・カーヴァーの短編集
『愛について語るときに我々の語ること』はそんな言葉で
紡がれている。
「冷やした、スミルノフ・ウォッカ、グラス五分の一
くらいのきちきちにクリアな散文で語られた、
結婚の破綻、アルコール中毒などの、十七篇の
絶望町(ホープレスヴィル)の話が収録されている」
(『カーヴァーズ・ダズン』のための序文
ウイリアム・L・スタル)
ebaponはこの中の「足もとに流れる深い川」に震撼させられた。
もともとebaponはチェーホフが苦手だった。
ブラックリアリストともいわれている。
カーヴァーの審美基準はチェーホフにより取り入れられた
「短いほどいい(less is more)」であって、
この短編集は
「骨までというのに留まらず、骨髄まで」カットされた、という
瀕死のミニマリストebaponの誕生である
ロバートアルトマンの描くカーヴァーの世界
(「足もとを流れる深い川」のシーンも出てきます)
グラスなみなみ注がれた感じ。
村上春樹訳はクリアカットされた「モンゴル・ウオッカ」の味わい。
原典を読んでいかなければ。