犬神人、あるいはカロンの言葉3

洛陽東山の西の麓(ふもと)、鳥部野(とりべの)の南の辺(ほとり)延仁寺に葬したてまつる。

遺骨を拾ひて、おなじき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷にこれををさめをはりぬ。

親鸞聖人伝絵 第六段 洛陽遷化 である。


上洛の如信やあの『歎異抄』の唯円から法義を学んだ覚如は、20歳になるや、父覚恵とともに親鸞の諸門弟の居る東国へ下向している。如信に再会し、善鸞とも遭遇している。
帰洛後、親鸞聖人33回忌を機に、報恩講式、翌年はこの「親鸞伝絵」の初稿を書き上げている。

その絵には墓をジッと見つめている犬神人の姿がはっきりと描かれている。

それから50年後、覚如は再稿本を書き上げている。

その絵には、なぜか、大谷の墳墓をみつめる犬神人の姿は、その墓と一緒に描かれていない。

ただ葬送荼毘の、職能、すなわちお先払い役としてその場に居合わせた存在として描かれているのである。


しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふことなし。(同上)


犬神人は、その職能から、「終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若」と居合わせただけなのだろうか。


(写真は、東本願寺刊 河田光夫『親鸞と被差別民衆』より)

親鸞滅後200年、蓮如上人ご在世の頃、成立した上宮寺本(文明18年)では、犬神人は泣き伏している。

「終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若」として、登場しているのである。

ただし、あの親鸞の墓を見つめる視線は消されてしまっている(忘れ去られてしまっている)のである。

(ebaponはこの問題を「他者の視線の痕跡、あるいは消滅」というテーマで考察したことがあります)