往年のつる橋
明治大正期には、大分の名所の一つで
絵はがきにもなっている。
愛媛県道(大分〜佐賀関間)が開通したのが、明治九年だからそのころ出来たモノであろう。
pon村は、pon川とその支流(裏側)のデルタ地帯で、隣村のぼうちち村からは、渡し船を使わなくてはならず、
橋が出来る前の話である物語の主人公甚吉は、たぶん牧やo塚大尉邸宅付近を迂回し、
pon村へはいり、地蔵堂で一服し、また川を渡り、町へ向かったことであろう。
ponつる橋は、昭和28年6月、西日本水害時に流出した。
pon部落も水没し、死者を出している。
村の墓地も水没し、当時は土葬だったので、ぼこぼことお棺が土中から浮かび上がり
新仏さんも土左衛門と一緒にぷかぷかたゆたっていたそうである。
この大水害を期に、pon川にも多目的ダムが着工された。
(その年に着工した芹川ダムは5年後58年に竣工、pon(大分)ダムは2017年にできあがるそうな。)
現在の舞鶴橋は、奇しくも水害のあった一月前に完成しており渡り初めが行われていたばかりであったという。
(数年前まで橋桁が残されていたけれど、完全に撤去されている。
流出しなければ名所になっていたかもね)