思わず「げろげーろ」と呟くebapon
(サルトルの『嘔吐』じゃないよ)
たとえば、
「こういってみよう。時計が動いている。なぜ動いているかを調べようと思ったら、これを一時的に止め、分解してみなければならない。分解すると時計は膨大な無意味なかけらの集積になる。時計は意味を解体され、ものの集積になる。ロカンタンは、自分の前に世界がそのようなモノのかたまりになって現れるのをみて、世界は見かけのモノだと感じる。その底には無意味なモノ、不気味なモノがよこたわっている」(加藤典洋『僕が批評家になったわけ』岩波書店より)
フッサール現象学者のはな虫さん。この写真だけでは『嘔吐』しない。
違った行程からとらえると、
確かに不気味なモノが横たわっている。
「しかし、フッサールでは時計を解体するのは、何故時計が動くのかを知るためである。そのためには、時計が無意味なモノの集積まで分解されるのは、まだ半分の行程に過ぎない。それだけではなぜそれが動くのかは証明できないからである。次には、もう一度、先ほどの逆の手順で、これを組み立て、完成して、ねじを巻き直し、それが先とまったく同じに動くのを確認しなければならない。フッサールでは、最後に、以前と全く同じ何の変哲もない時計が残る。それが以前と全く同じ、普通の時計であることが、そこではもっとも大事なことである。」(同上)
四半世紀前と全く変わらない、
トーレンスTD-126 Centennial
ピース
(VISIONS OF JAPAN INOSE KOU より写真部分)