1945年の12月のある日、エジプトの小さな町の農夫ムハンマド・アリーは
「マック・ザ・ナイフ(モリタート)」を口ずさみながら、山の麓まで鍬を担いで
肥料取りに出かけた。本当は、「セント・トーマス」だったらもっとよかった。
彼はなんと、エウアンゲリオンにおいて「外部の異質なるもの」である
「トマス福音書(写本)」の入った巨大な壺を掘り当ててしまったのである。
(写真は 荒井献『トマスによる福音書』(講談社学術文庫) 元は同出版社から刊行された『隠されたイエスートマスによる福音書』)
エウアンゲリオン(福音書)というよりイエスの言行録で、その存在は原始キリスト教の教父によって言及されていたが、1800年近くその存在は消し去られてきた。
(イエスの語録集はQ資料といわれ、マタイとルカが資料として依拠したものである。トマス福音書は、Q資料(60年成立か)より時代は下がるが、内容はかなり重なっているそうである(荒井))
それゆえか、存在を抹殺された福音書
さて、荒井献は「トマス福音書の神話論」と題して次のように述べている。(同書p55)
「はじめに「父」と「母」と「子」があった。人間は「子ら」として「父」(と「子」)の本質「光」を、あるいは「母」の本質「魂」を保有しているが、「神」(創造神)によって「天地」と「肉体」の中で支配される。「子」なるイエスの啓示によってその本質を認識し、「単独者」となれば、終極において始源に復するであろう。
ここにいう、「単独者」はebaponの「外部の異質なるもの」の終章を形成するものとなるであろう。