すべてはニキータおいさんが隣の髭親父を
批判したことから始まるんだな
その年(1956年)あの忌まわしいハンガリー動乱が起こるのだ
わかきジョルジェ・クルターグもその時代を生き抜いた。
その影響はチェコスロヴァキアにも飛び火し
プラハの春(1968)となるが、それは別の話
ビオラ奏者の赤坂さん(大食いのひとではないよ)は
「小オフィチウムには、グレゴリオ聖歌や声明の影響がみられる」
と述べていて、もしやと
音の書斎で調べ物
うーーん、違った(笑
というのも
pon大の大先輩、天納傳中さんがプラハに天台声明を伝えたのは
1998年
G.クルターグが小オフィチウムを作曲したのはその前の
1989年であった。