五来重が「日本人と仏教」と題し、季刊誌『淡交』に連載を始めたのは
昭和54年であった。
親鸞の坂東節(曲)に話しが及ぶ。
五来が語る坂東曲は、同年、11月28日「大師堂」で勤められた
いわゆる「分裂報恩講」のそれであった。
五来は、広縁で勤められた
「坂東曲」になにを感じ取っていたのか。
ところで、五来重の
「西本願寺はこの念仏の意味が分からなくなったので
明治初年ごろ止めた」のいいは
真宗大辞典をみると
「本願寺通紀巻三、寂如宗主伝に元禄二年(1689)十一月二十八日
『坂東節を停めて八句念仏和讃と為す』とあれば、本派本願寺に於いても第十四世寂如
上人の時代に至るまで之を用ひしこと明かなれども
後世にいたって大派に限りたる行事となっている
是れ、分派の当時声明に最も堪能なりし富田の教行寺が大派に属したるより、
この行事は同派固有のものとなりしと伝えられる」
とある。
ん〜
「明治初年やめた」理由はわからないなぁ