衣服随念の願

ある方のブログを見て、はっとすることがあった。

大経の本願文には衣服随念(第三十八)の願

(設我得佛・國中人天・欲得衣服・随念即至・如佛所讃・應法妙服

自然在身・若有裁縫・擣染浣濯者・不取正覺)

というのがあって、ponはずっと、娑婆では衣食住を貪求することに疲弊し

四六時中やすまることがない衆生の姿を如来はみそなわし、衣食住が随意に現前に

あらわれる願をたてられたと思っていた。

ブログ子は

「浣濯」「擣染」といった言葉が出てくる時点でインドのカースト制度を思い浮かべるのが当然ではないだろうか?

と、重要な指摘をしておられる

続けて、

「洗濯や染色は不可触民の仕事であると決めるカースト差別を意識し、その差別をなくしたいという願いが第三十八願から感じ取れる。」

この視点は完全にponに欠落していた。


世親『浄土論』に「愛楽仏法味禅三昧為食」(国土荘厳14「受用功徳成就」)の偈文がある

また大経には「意に食なりとおもえば、自然に飽足す。身心柔軟にして、味著する所なし」とある

『倶舎論』には四食(段・触・願・識食)という説があり、これは衆生の食の有り様をいい、浄土の食とはえらぶものだ

と表面的に理解していたことがある。

曇鸞は「受用功徳成就」の偈文を次のように註釈していた

「仏本なんがゆえぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは巣を探りて卵を破り、饛饒の饍となす。 あるいは沙を懸けて帒を指すをあひ慰むる方となす。ああ、諸子実に痛心すべし。このゆゑに大悲の願を興したまへり。」

これは「四食」のうちの「願食」を証す文の譬喩によっている

譬喩は

「或る男が飢饉に際して、二人の子を養う手段がなくなり、他国へ稼ぎに出ることになったが、留守中子に食わせるものがないので、砂を袋の中へ入れ、壁に掛け、わしがかえってきたならこの中のものを一緒にたべよう。それまでは絶対に袋をあけるな、といって出かけた。残された二人の子は、その袋を眺めて、父が帰ってくれば食える食えると思って暮らしたので、その思いが食となって命をつないだ。願食とはそのようなものだ、とある。」(p71『解読浄土論註』上巻)と。

如来衆生の具体を離れず願を起こされている

恥じ入るばかりである