ここでいう「辟」の字は仏教用語で、梵語の音写に用いられているため
文字に意味を求める必要はほとんどない。
ところが親鸞聖人は主著の中で「辟支仏」の「辟」の字の
訓(左訓)に
ひがむ・あやまる
とふっている。
辟(かたよる意)→癖→僻(ひがむ意)の流れで訓でいるのだが
辟=僻とは直ちにいえない。
では、恣意的な訓なのかというと
聖人は必ず典拠をもとめている。
オグさんの研究発表によれば
6世紀に出来た、陸徳明の辞書『経典釈文』に
「辟=僻」の初出が見られるそうだ。
「僻」を「ひがむ・あやまる」と訓むことは漢和辞典では、『類聚名義抄』に初見とのことである。
その流れにある字鏡集をみると
うーーーん
ちゃんと「辟=僻」(辟同)と示してある
「ひがむ・あやまる」の意もあるなぁ。
この辺の辞書、持ってたのかなぁ。
ところで
探索・詮索・探求はおもしろいんだけれど
ただ辞書をぱらぱらめくるのも楽しい。
雑字部なんて、変な字のオンパレードでとても面白い
これって字なのかってのもあっておかしい。
(おいおい辞書の世界をご案内していきます)