『原始仏教における念仏思想の源流』
Buddhistyosshinさんの講義である。
「反復した念こそ随念である」
「繰り返した念が随念であり、念と意味の相違はない」
ブッダゴーサの『清浄道論』(および復注)の言葉を劈頭におく。
(たぶん、研究員の中で、この注釈文献の存在を知っているのは「さぼさぼ君」ぐらいだろう)
ponなんかも、なんとかこの辺の本を読んで誤魔化しているだけだ。
(専門書千本ノックもっと真面目にしないといけない)
同じく
「あるいは、起こるべきところにのみ起こった、信によって出家した善男子に随適した念もまた随念である」
の一文を引く。
念(念仏)には、「仏に対して反復して憶念すること」であり、
「仏を信ずるものに随適した憶念」という解釈があった
ということである(Buddhistyosshinさん)
おおお、そこに念仏の源流があったのですか!