ebapon、「きたなまろ」になる 終章


「さねかずら」


(季節の花 300」 http://www.hana300.comより)


さて、どちらも叡山出身の僧ということで、前例どおり「藤井」姓となった

法然親鸞

「名(みょう)の字」は、元彦と善信と賜っている。


法然の「元彦」。井上円氏は、源空の「源」の字は源氏につながるとして「元」の字へ、

しかも事件の大「元」の男(彦は男の意)として俗名「元彦」となった、という。


ところで分からないのは「善信」。親鸞は吉水時代、善信(ぜんしん)と名告っていた。

それが罪科に問われ「善信(よしざね)」と名乗れという。

この、どこが貶称なのか?


「善」は良い名である。

「信」もまた良い名である。


善く信ずる相なのである。


ふと、井上氏は気づく。「善信」はふつう訓読みすると

ほとんどみな「よしのぶ」という。

では、なぜ「よしざね」なのか

「さね」に何か貶する意味があるのか?

(井上円「宗祖と越後」高田別院発行 パンフの写真は居多ヶ浜 清水謙一氏撮影)


名にし負はば逢坂山のさねかずら人に知られでくるよしもがな (百人一首所収の三条右大臣のうた)

万葉集の恋の歌に

「さねかずら」がでてくる。

「名にし負はば」は、そういう名前をもっているならば

どういう名かというと「さねかずら」

「さね」は「さ寝(男女が共寝する意)」



その「さ寝」を意味したのではないか、という。

つまり「よしざね」は「妻帯した僧侶を侮辱する」読みなのである!


流刑地での5年間の名乗り


「藤井善信」



そこで培われた強靱な「信」を


ebaponは問うているのである。




さて、話は一転


いよいよ


「ぶージー」の名の持つ秘密が明かされるときが来た。