「いのち」の意味2

では、どうして佐々木閑さんは

「生かされている私」という標語が「諸刃の剣」というのか?




「生かされている」という受け身形は、我が身の無力を悟り、

謙虚になるためにはよい形かも知れないが

場合によっては、

人の意志を無力化し、コントロールする洗脳標語として、凶器になる。


標語は便利な道具だが、あくまで簡略形だ。

必ず、その奥にある本当の意味を追い求めなければならない。

「生かされている私」という標語を使うのはちっともかまわないが、

その時には、「私を生かしているのは何か」を理解して、

それを人に説明する義務がある。

説明できないのに「ただなんとなく、宗教的雰囲気があって便利だから」

といったいい加減な気持ちで使うなら、ひどい欺瞞だ。

宗教者の言葉には、常に重大な責任が付随していると言うことを

忘れないでもらいたい。

(以上筑摩新書より抜粋)



ところで、あなたは

「今、いのちがあなたを生きている」がわかりますか?

と問う海野孝憲さん

「最後に私は、テーマを次のように言葉を補足すれば、意味はかなり明確になるのではないかと確信」

しているという。



「今、み光があなたと共に生き、あなたは生かされている」