路傍には彼岸花が
秋の訪れを告げる村の祭りも昼からの雨で中止に。
今日は、同級生の法事のお勤め。
16歳のこの日に自死したM君。哲学少年だった。ヘーゲルやカントの存在を知ったのも
M君からであった。
その日のことは昨日のことのように思い出される。
いつもニコニコしていたS爺さんが素の顔のまま孫の死を伝えに寺まで来た。
通夜には、進学校の生徒の死ということで、新聞記者が集まっていた。
(進学校だから何だっていうんだろう)
興味本位で取材に来ていたことを察知した父は法話でそのことをそれとなく諫めた。
一社を除き、記者達は記事にすることを止めた。
(一社はすでに記事を上げていたそうである)
記者等の賢明な判断を今でも頭が下がる思いがある。
加藤典洋さんはこの著の中で、M君が愛読したカントの言葉を引いている。
カントは『啓蒙とは何か』の中で
他者の中には、「死んだ人」「これから生まれてくる人」も含まれる
と言っている。
加藤さんは、この言葉はふつう
「自分がいま、『生きている人=欲望を追求したい人』と自己規定されているあいだは、ここにいない人=他者のことを考えよ、というゾルレン的命題に聞こえます
といっている。
ebaponもM君の死、また昨年のたまご王子の死(学園天国さんのことじゃないよ)をそのように聞き取ってきた。
(つづく)