入矢義高『自己と超越』岩波書店
『求道と悦楽』などの本を、松本史朗さんや袴谷憲昭さんの論考に接してから
ぱたりと読まなくなった。
最近また少しずつひらくことが多くなった。
ところで、松本史朗さんの『仏教の批判的考察』
結論の箇所にこんな文が置かれている。
「しかし、何故に“仏教”は宗教的時間性を喪失したのであろうか。
また何故に“仏教”は、現実肯定、自己肯定の安易な理論に変貌したのであろうか。
それはすでに述べたように、釈尊の縁起説がどこまでもニヒリズムであり、ついに「絶対他者」を認めなかったからであろう。
しかし、「絶対他者」なきニヒリズムというものは、決して長くもちこたえられるものではない。
超越的な「他者」がなければ(註63)、人はすぐに自己という基体を肯定する内在主義に落ちていくのである。
かくして仏教思想史というのは、実に楽天的で現実肯定的な、危機意識を欠いたいい加減なものとなった。」
(おお、ponは生ける「仏教思想史」だったのね・・・)
「わずかに親鸞のみが、「他者」を立てることによって、厳しい宗教性を獲得しえたが、他の大半の人々は、自己を肯定し現実に流されたのである。」
もちろん、真宗でも「親鸞のみ」であって、あとの「他の大半の人々は、自己を肯定し現実に流されたのである」んだよね。
でも、ponは「現実に流された」人々の中にも、「他者の顔」(レヴィナス)と出会う径路はあるのだとおもう。
(つづく)