マルティン・ブーバーの「イサク奉献」に関する
キェルケゴール批判は、本筋から外れそうなので
今は問いません。
(マルティン・ブーバー著作集5 かくれた神 みすず書房参照)
レヴィナスのキェルケゴール批判は「他者の痕跡」においてなされる
ことから「聖なるものの暴力」の直接性を問うことは頷けます。
デリダはしかし
tout autre は tout autre である〈およそ他者というものは
まったく他なるものは、あらゆる他者である
まったく他なるものである〉(『死を与える』)
といい、キェルケゴールに「潜在的可能性」(高橋哲哉)を見、返す刀で
レヴィナスを批判します。
ebaponはでも
Me voici.(「我ここに」。アブラハムの言葉)
に立ちます。
どうも、なめくじおばさん「ロズ」はデリダであって
ロズのひとり勝ちのようですね。
だって、レヴィナスの言うエコノミーを断ち切るのは、
動物・女性。
(親鸞もデリダに近い考えを持っているとebaponは考えています
ケンピネンドウのたぐい、女人成仏etc)
「かえるくん」はやっぱりキェルケゴリアンの釈先生
へびは消去法でレヴィナシアン・・・。
ebaponはなめくじおばさん「ロズ」より
動物(デリダの言う「猫」)と女性は