銀座の村松2



銀座の松村ならぬ「村松

時計商の一人娘だった母が、育った時計店であった。


村松の「プリンス」は、精工舎の「セイコー」、尚工舎の「シチズン

と肩を並べた純国産時計であったそうです。)


その村松時計店から贈られた独ユンハンスの置き時計。

祖父の形見(傘寿の祝い)である。


少し祖父のことに触れる。

ebapon寺十四代住職だが、若かりし時は学究の徒。

宗門の大学から、同志社の神学部で学んだ。

布教では、つねに”I am I”と自同一を説く僧侶であった。

当時は聴いていて何いってんだ、って思っていたけれど

今、ebaponは「自己同一性」を主張しており、その全く予期せぬ

隔世遺伝に驚いてもいる。


ところで、先のブログで触れた寺尾寿芳さんの清沢満之批判。

検証の第一として

「満之の視点の示す仮象性の欠如」

を上げている。

この視点は、竹内整一の

「視点に向きのあることを明確に押さえておかなければ、(略)

絶対無限の相対有限に対する相即的・内在的な理解は、ややもすれば

自己を絶対化する傲岸不遜な自己認識へと堕落しかねない」

を参照している。

(写真『自己超越の思想』より)


この竹内の指摘に着眼できたのは、もしかすると、寺尾さんが

キリスト者であるからかもしれない。


キリスト者は「シニフィアンシニフィエ」ということが、

「神(見る人)・人(見られる人)」との絶対の隔絶をとおして

踏み越えてはならない境界線として認識されているはずだ。

(今思うに、ebaponの祖父は、その点の認識があったようである)



満之は越境し、なおかつ往還したのだろうか。