(叢書『世界像の形成』所収の松本史朗「仏教の批判的考察」は
大蔵出版の『仏教思想論(上)』に収録されていました。)
「超越的な「他者」がなければ(註63)、人はすぐに自己という基体を肯定する内在主義に落ちていくのである。」
ponも松本さんの主張を大枠では認めるけれど
(註63)のところは反対だ。
ponは内在主義から「他者」へ至る道を宗教哲学的に模索しているのだから。
(註63)
西田幾多郎は(略)バルトにおける神の超越性を批判している。
つまり、バルト的な超越神は「それは鞫(さば?)く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主神にして、どこまでも内在的な絶対愛の神ではない」(略)と述べて、バルトの超越に対し「内在的超越」を主張するのである。
しかし西田が、中世的世界のキリスト教=「対象的に超越的宗教」=「君主的神の宗教」が「俗権と結合した」と批判するのは、奇妙である。「超越」を説いたバルトはナチスと対立したのに対し、「内在的超越」を説いた西田は(略)日本は「何処までも皇室を中心として自己同一を保ってきた」と述べているからである。
※この辺までは、首肯できる。問題は
私が言いたいのは、「内在主義の無批判性」ということなのである。(略)
「あたかも有機体に於いてのように、全体が一となることは各自が各自自身となることであり、各自が各自自身となることは全体が一となることである」という文章を読むと、西田の論理の基礎が、華厳教学であり、また私が「非仏教」と考える「基体説」であることが、知られるであろう。
※ここからさらに展開するのが清沢満之の思想だ。
彼も華厳教学がその基礎となり「無限責任」をいうけれど、さらに「無責任」の論理をそこから見出してくるのだ。
ここに「他者の顔」にいたる理路がある。